武と術
武術と言う字は、「武」と「術」の二字から成っています。当たり前のことですが、武術の世界ではこの問題が永遠のテーマとも言えます。特に現在は日本のみならず、中国でも老大家は皆鬼籍に入られ、後を継ぐ人は「武」よりも「術」に重きを置く方向に向かっています。
そもそも「武」とは武功の事で、所謂鍛錬、現代的に言えば東洋的ウェイトトレーニングとも言えます。昔、三国志の関羽が重い大なぎなたを自在に操ったとか、八卦掌の馬維棋が粛親王の前で重い銀槍を演武した等、功力を表すのが「武」であります。八卦掌のみならず、中国武術の殆どがこの武功を重んじます。
それに対し「術」とは、技術、奇術などを指し、套路や対錬、擒拿等を指し、動作、コツ等技術的な事を指します。ここで重要なのは「術」は、決していけない事ではなくむしろ重要なことです。しかし、武術愛好家の中には、この「術」のみに着目して、「武」を疎かにする人が多々あります。
武術とは、武功の鍛錬があっての技術なのです。にわか仕込みの技術やコツでは素人にも勝てません。素人であってもいざとなると信じられくらいの力を発揮します。それが元スポーツ経験者ならばなおさらです。その時、にわか仕込みの関節技が通用するでしょうか?その打撃が効くでしょうか?コツで倒せるでしょうか?それは難しいと思えます。その時の為の武功です。
八卦掌の武功には、様々な鍛錬法がありますが、八卦掌の言葉に「百連は一走に如かず。」と、あるように、やはり走圏が重要です。
馬傳旭老師も現在齢八十を過ぎても、毎日走圏を欠かさず練っているため、同世代の老大家が次々と鬼籍に入る中、現在でも4メートルの槍を扱き、2キロ以上ある八卦刀を片手で軽々と操っています。
「術」と学べば、達人名人に近づくと思っている人もいるでしょうが、やはり、功を練り「武」を作るべきと私は思います。其の上での「術」があれば、名人達人の一端でも垣間見る事が出来るのではないでしょうか?しかし、多くの人は「武」を嫌がり、「術」に走ってしまいがちなのが残念です。
八卦掌の打法
八卦掌は一般には身法や歩法が代表的と思われますが、八卦掌は拳法であるため打法も重要な一つになります。私が北京に留学した当時、八卦掌の打法を伝えている武術家は少なく、皆無と言っても過言ではありませんでしたが、李子鳴の大弟子馬傳旭老師のみは伝えていると言われていました。馬老師について学んでいると、馬老師の八卦掌はまず走圏の時間が以上に長い。今年の春、馬老師にあった時も、もう齢80を過ぎても、毎日2時間の走圏は欠かしはいませんでした。その走圏の基礎の上にいくつかの打法の訓練を行います。その訓練は残念ながら現在のどの中国武術の本にも書かれてはいません。もちろん、馬門下以外、他の八卦掌では見たこともありません。以前、馬老師にそのことを聞くと、「これは李子鳴老師に学んだのではなく、郭古民師叔に学んだのだ。」と、言っておられました。そして「打法が無くては八卦掌のどんな身法も歩法も意味を持たなくなる。」と、仰っていました。1990年代に馬老師がある著名な八極拳家と交流した際、その武術家は「このような強大な爆発力のもった武術家はあったことがない。」と、仰られていました。
八卦掌の打法の秘密は螺旋勁から成り立っていますが、それは走圏で練っていきます。その後、打法の特殊な訓練に入ります。私が学んだの八種類ですが。それぞれ特徴的な動きがあります。そして多くの口訣から成り立っているのです。これらは皆一般的な八卦掌の動きとは想像もつかないものです。よく、形意拳で打法を学び、八卦の身法を使うと言う人もいますが、八卦の打法と形意の打法は根本から違います。形意は明、暗、化の理を用いますが、これは郭雲深大師が言われた理論で、八卦はまず暗から学びます。そして、その暗は明が連なってあたかも鉄糸球のようにする訓練なのです。明を通り越して暗を学ぶのですから、他にはない特殊な訓練をしなくてはなりません。これこそが董海川先師の残した打法なのです。それは、すべて伝承の中に伝わっていくもので想像では不可能です。馬老師の弟子の中でも伝わっている人は少ないですが、伝わっている人はやはり強大な爆発力を持ち、公安や軍の要職についている人もいます。
その打法とは、岱手、穿掌、挑掌、張掌等の訓練法で、特に岱手は先師董海川、梁振圃、李夢瑞などが得意として、馬老師も得意としています。これらはすべて単総の練習法であり。その訓練に内功を入れて練習します。その内功についても、走圏が重要となります。よく「どれくらい走圏を練習したらよいか?」と、質問を受けますが、私が以前ある先輩にその質問をしたら、「効果が無ければ、練習時間が短いのだ、1時間練習して効果が無いなら、2時間練習しなさい。功が身につくのは、個人差がある。」と、言われた。まさにその通りであり、私は留学期間中走圏のみ朝2時間半練習しました。
また、その理論も重要だが、私は浅学なので、物理学とか、よく解らない。「中心軸」、「ベクトル」・・・?
考えた事もない。また、その理論に武術理論が当てはまるかどうかも解らない。只、言えるのは、重心と体重比率は一緒ではなく、人間の脊椎は流動的で蛇のようであり(龍身)、「軸」と考えていては、打法は身につかないと言う事です。力は丹田から爆発的に生まれます。最初、留学中ずっと走圏のみ練習させられ、他は一切学べませんでした。ある人のアドバイス受け、そのアドバイスは今まで日本の雑誌や本に出ていない方法でした、内容もまるで今までの常識を否定するかのような内容でしたが、私はそれをやってみました。馬老師について一年半くらいたった頃、もう何もかもイヤになり、その方法で形意五行連環拳を練習したのです。するとそれを見た馬老師がすごい眼で私をにらみ、「何だ、今のは、もう一度やってみろ!」と、言われたのです。私は内心「ああ、もう破門だろう。」と、半ばあきらめて、だからと言って適当にやっては名人馬傳旭の眼は誤魔化せない。と思い、思いっきり演じたのです。すると馬老師の表情が変わり「何だ、すでに功は成っているじゃないか、明日からは技を教えるぞ!」と、言っていただきました。(つつく)
発勁?発力?
日本において多くの中国武術愛好家が、よく耳にするのが「発勁」と言う言葉でしょう。実際、中国へ行ってみると、多くの中国人が「発勁!」とか「勁儿!」と、言う言葉を耳にします。しかし、中国人はテニス観ても、サッカーを観ても、はたまた書を見ても、「発勁!」「勁儿!」と、言うのです。逆に中国武術家は「発力!」とか「爆発力!」と言っています。このことをある老大家に聞くと、皆、「すべてのものに勁 があり、それを発するのが発勁だ。発勁はとても重要だ。しかし、発勁は功夫特有のモノではない。特有のモノは発力だ。最も強い発力が爆発力だ。」と、言っておられた。
多くのスポーツ、書道、音楽にも「発勁」はあります。しかし、「爆発力」は中国武術の特別の訓練を行わなければなりません。その訓練は各門派それぞれ違います。形意拳は五雑単躁手と丹田気打(腹気打)で
八卦掌は張掌で行います。太極拳の太極五錐もそうです。では、何故日本では「発勁」とすれ違ったのか、
これはラーメンと同じではないのでしょうか。もともとラーメンは拉麺と書き、拉とは中国語では引くと言う意味です。故にラーメンとは手延べの麺の事を言っています。機械で作るものは機械麺、包丁で切るのを麺条と言います。しかし日本では中国の麺は皆ラーメンと言っています。また、具にのるのは牛肉で焼き豚ではありません。
これは、最初に日本でラーメンを広めた方が、技術的な問題と牛肉よりコストの安い豚肉を選んだからだと思います。
「発勁」も同じことが言えます。最初に伝えた人が「発勁」と「発力」を勘違いしたのが、はじまりではないでしょうか。
中国武術で言う「発力」は、中国武術特有の訓練によってのみ完成するもので、大きいものを「爆発力」と呼び、この技術を会得することは大変難しいと言われています。「爆発力」は腰部の力、関節の柔軟性、全身の協調、四肢の功力が必要であり、各流派皆独特の練習法があります。
矛盾力
「矛盾力」
中国武術の中でも、特に内家拳の特徴と言えるのが、矛盾した力です。これを仮に「矛盾力」といますと、この「矛盾力」で内家拳が形成されていると言っても過言ではないと思います。
御存じの通り矛盾とは、「どんな盾でも貫く矛」で「どんな矛でも防げる盾」を突いたらどうなるか?と言う中国の故事から生まれた言葉です。この「矛盾力」を最初に提唱したのが中国武術界でも国手と謳われた意拳の創始者王郷斉です。しかし、この「矛盾力」はすべての内家拳に共通する力と言えます。
では、「矛盾力」とはどのような力なのか、「矛盾力」は二つの相反する力を同時に使う事により生まれる力です。
例えば、八卦掌の転掌式、形意拳の三体式の時、手の指を天に向けて伸ばし、肘を地に向けて垂らします。そしてその両方に同様の力を加えます。片方の力は上に向かい、もう片方の力は下に向かいます。このことにより腕に均衡な力が現れます。これが「矛盾力」です。この時の力の均衡により、両肩の力を忘れる事が出来ます。忘れると言うことは、力が入っていない状態、所謂リラックスの状態になるのです。
良く、「肩の力を抜きなさい。」と注意されがちですが、この「矛盾力」を使えば簡単に力を抜くことが出来ます。
これは普通に立つ時も同じです、只、立つのではなく、両手両足に均等に力を入れ、頭頂部は上に向かうよう力をいれます。それと同様の力を尾骨の先に下へ向かって入れます。
全体に均等に力を入れる事によって、力の均衡が生まれ、脊椎に無駄な負荷がかからず、立っていてもあまり疲れないのです。
これは橋梁建築のつり橋に似ています。瀬戸大橋やレインボーブリッジに代表するような橋梁は橋の重い重量を太いワイヤーで吊り、バランス良くワイヤーを引き絞る事で、力の均衡を作りあげています。だからこそ頑丈で強い橋が出来ているのです。
この力を、前後、左右、上下に感じる事により、身体の力は均衡な状態になり、同じ姿勢が長時間保つことが出来、力を発し易くなります。この力を意拳では「六面力」と呼んでいます。
また、形意拳はこの力を長年の練習で強めていき、前後左右上下に「弓の張ったような力」にします。そして、一瞬でその均衡を変えるのです。もし、前に力を変えると身体は強力な力で前に進み、迅速に強力な打撃が出来るのです。
化勁のメカニズム
化勁のメカニズム
中国武術には「化勁」と言う特有の技術があります。この「化勁」は各流派それぞれ違いますが、その中でも最も「化勁」を全面に出してきたのが、太極拳と言えるでしょう。特に内家三拳は「化勁」を重要視します、八卦掌と太極拳は少し似通っていまが、形意拳は大きく違っています。八卦掌、太極拳の「化勁」は主に受け流す事を中心に行いますが、形意拳は相手の力を弾き返します。八卦掌、太極拳の「化勁」が柔なら、形意拳の「化勁」は剛と言った印象です。
しかし、そのメカニズムはほとんどと言っていいほど同一であります。
「化勁」は四両発千斤と言うように、大きな力を小さな力で制圧すると言った技術です。このようなことは絵空事のように思われますが、実は現実的で力学的だと言えるのです。
形意拳は明、暗、化と言う三段階の練習課程があり、それぞれ練精化気、練気化神、練神還虚と言う段階に表しています。八卦掌もその練習課程を用いています。しかし、太極拳は最初から「化」と言う事に拘っています。打形意、走八卦と言われるように、形意拳は打法、八卦掌は走法が中心ですが、太極拳は化太極と言われる程ですから、「化勁」を説明するには太極拳は最も良いでしょう。
太極拳の「化勁」の練習方法で、最も有名なのが推手と言う練習方法です。これは二人でお互いに手を合わせ、推したり引たりするものですが、ここに四正四隅と言う理論があります。まず四正とは掤、履(捋)、挤、按を言い、四隅とは採・挒・肘・靠を言います。(履 捋は字がない為当て字)この四正四隅の中で最も大切であり、基礎的な物が掤です。掤の力は難しく習得しにくいのですが、すべて、この掤から始まります。しかし、この掤は推手では習得は難しく、まず套路から学ばなくてはなりません。套路でこの掤の力を学び取り、その後、推手を学ぶのです。
ではその掤の力とはどのようなものか、よく軽く押すと言う人がいますが、これでは「化勁」は習得できません。掤の力とは前項の「矛盾力」で、説明した「六面力」とほぼ同じと言えます。「六面力」では上下、左右、前後ですが。掤は八方八面を指します。八方八面の力を支え、八方八面に力を発するのです。この力を感じながら太極拳の套路を練るのです。そうすれば、掤の力を習得出来ます。
「化勁」のメカニズムはここからです。まず、相手の力を先ほどの掤の力で受けます、これは受けると言うより支えると言う言葉が妥当かもしれません。この時、相手の力が最大限ならば最も良いと言えます。「化勁」と言うものは、相手の力が強ければ強い程効果は大きくなるからです。相手の最大限の力を自分の最小限の力で支える。この力は掤の力であります。この掤の力は筋、骨、肉の中で筋から生まれる力です。
最初の掤の力は大きく粗く粗雑であり、大きな力どころか普通の力も耐えることは難しく、それを耐えようとして力で耐えてしまい、いままでの訓練が台無しにしまいがちです。ガチガチに推手をいているのがこの例と言えます。また、相手の力をふわりふわりとふにゃふにゃになって交わす人がいますがこれは相手の力が速すぎたり、強すぎてタイミングが合わないと駄目になってしまいがちで、あげくのはてには「貴方の推手はなっていない。」とまで、言う始末で、こんなものは論外と言えます。
掤の力のとは、自分自身がある体制をとることにより相手の力を分散させ、一点に掛かる力を小さくさせる技術なのです。
このことは、家を建てるときの梁と同じことで、梁は上の重力を分散させ下の柱の負担を減らし、家をより強固とします。
相手の力をより多くに分散出来れば、自分への負担は減り、大きな力も耐える事ができます。
そして、相手の力が耐えることが出来れば、相手と自分の力が0地点となります。しかし、相手は最大限の力に対して自分は相手の力を分散している分負担は大きく軽い状態と言えます。その0地点の力を維持したまま履(捋)、挤、按らを行います。この時、相手の手は0地点のままなので、変化していないと錯覚するため、相手は重心のバランスをくずし、受け崩されたり、あげくは飛ばされるのです。
粘勁とは、相手の力をへばりつかせる力で、日本武道の合気に似た力といえます。「化勁」の秘訣は黏粘連髄の4文字に集約できます。黏とは相手に貼りつくことで化勁の中でも最も重要で、この黏勁ができなければ化勁は使えないといわれる技術です。そして次に来るのが粘であります。粘勁は、相手の力を自分の力と同化させ、その力を自分の有利な方向で誘導させる。(連髄)この同化が粘勁であります。このためにはある一定の功力と、脱力しないことが秘訣で、もし脱力してしまうと同化した力は、「無」になってしまいます。だからと言って力を入れすぎると拙力となってしまい。やはり同化はなくなってしまいます。その辺の具合を師から学ばなくてはいけません。そのためこの粘勁が出来る武術家は、現在も多くはいません。八卦掌の故李子鳴先生はこの粘勁に優れた方でした。大柄な白人を椅子に単座したまま、粘勁でいなしていまう程でした。この粘勁を使い最初は相手を受け流し誘導しますか、高度になると、相手に触れたまま相手を前に誘導し、そのまま発勁してしまえばわずかな力で相手弾き飛ばす事ができます。
但し、粘勁には重大な欠点があります。それは自分より功力の上の人と接すると、逆に相手に操れ、力の均衡が崩れると、弾き飛ばされるのです。これでは、化勁を学びかえって弱くなったように見えます。更に、その恐怖心が高まると、今度は相手が手をかざしただけで飛ばされる?正確に言うと自ら飛んでいる。様になってしまいます。よく太極拳の名人が映像で相手を触れるだけで、相手が震え弾け飛ぶのはこの原理の極みと言えます。この事を防ぐのが、次の連と随です。
連勁は粘勁ほど難しいものではありませんが、ある意味粘勁より大事だと言えます。粘勁は化勁で最も習得に難しいですが、次の連勁はその次に難しい聴勁を会得しなくてはなりません。聴勁で相手の力の方向、強弱、硬軟の情報を感じ取り(憧勁)、相手の力に逆らわず、相手の力に連なっていくのです。これに先ほどの粘勁が加わると、相手の力に自分の力加わり、大きな力になって相手を弾きとばすのです。この連勁は時には鉄道のレールのように相手の力を誘導し、時には相手の力と自分の力を数珠つなぎのようにして、相手の力を運ぶのです。この連勁があれば、功力が大きくても誘導してしまえば良いのです。
そして、随勁です。随勁は字のごとく相手に付き従う(随行)するのです。相手の方向が決まると、その方向に思い切って押し出してあげる。そのことにより相手を飛ばしてあげるのです。簡単に言えば、転びそうな人を押し飛ばすと言う事です。もう相手は転びそうなのだから、あとは指一本でも倒せます。そこをいじわるにも発勁してあげるのです。相手はたまったものではありません。しかし、このとき相手は飛ばされて壁に当たれば当たった部分が痛い、転べば地面に当たった部分が痛い。でも、飛ばされた部分は一切痛みがありません。内傷もありません。要は飛ばす方が安全な方向へ飛ばせば、怪我をしなくてすむのです。楊露禅先師が北京で試合をしても、敵が皆無傷だったのはこの力なのです。
では、化勁とは何か?「化勁」は「化」(変化)と「勁」(ちから)からなる言葉です。
所謂、「勁(ちから)を変化する。」と言うことになります。私が十代の頃学んでいた先生が「両手で胸を押しなさい。」と言われ、私が胸を押すと、先生はその力をいとも簡単に無力化して、更に私を胸で押し返ししてしまった。化勁と同じように、「寸勁」と言う言葉が中国武術にありますが、「寸勁」とは一般には一寸(3.3センチメートル)の距離から相手に衝撃を与える打法と言われています。だから、分勁は(3.3ミリメートル)着勁は密着した状態からと言う解釈になります。只、八卦掌では違います。「寸勁」の「寸」とは、日本語のちょっと「一寸」と言う意味に近いのです。経穴に「百会」と言う穴がありますが、意味は百脈が会う所と事です。人間には経脈は百もありません。要は経脈すべてが交わる所と言う意味なのです。だから、八卦掌においては、分勁も着勁もすべて「寸勁」なのです。そして、その八卦掌の「寸勁」は現象ではなく技法なのです。技なのです。八卦掌における「寸勁」は方法であり、伝承によって可能になるものです。他にも岱手や磨手、腕打と同じような技法の一つです。
話は戻ります。当時の私は感動して、これが化勁かと思っていました。後日、別の古武道家にそのことを話すと、「賀川君、それは化勁ではないよ。」と説明してくれた。そのメカニズムは、私が両手で相手の胸を押すと、相手はすかさず胸をすぼめる(含胸抜背)そのため私の力は分散し、押しにくくなる。その後、相手はそのまま前に出る。そのため、私の手はロックされ手首の関節が固めてられる。手首がロックされている為、私はなすすべもなく押し返される。と、言うことです。その方は「それは古流柔術のコツで、コツを知れば誰でも出来るよ。」と言われました。その時の私は「騙された!」と、思い、逆に見抜けなかった自分を恥じたのです。
しかし、それから30年たった今思う事は、あれも化勁だったのではないか、なぜなら化勁とは、相手の力を変化させることで、あのトリックも最初に相手の力を分散させている以上、やはり化勁ですと・・・
只、ここで論じているのは太極拳の化勁であって、さっき化勁は太極拳の化勁ではない。古流柔術の化勁と言える。化勁には種類があり、太極拳、八卦掌,形意拳皆化勁があります。
太極拳と八卦掌の化勁は良くに似ていますが、少し違います。太極拳の化勁は相手の力をずらし変化させますが、八卦掌は相手の力を吸化します。形意拳は全く違い相手の力をそのまま弾き返す。三者三様です。 では、先ほどの相手が押してきた時の話を太極拳の化勁で説明するとどのようなことになるか説明すると、「仮に相手が両手で胸を押してくると、まず相手の力と自分の力を同化させます(粘勁)そして相手の力を分散させるのではなく、逆に一点に集中するように誘導します。その時故意に自分に中心からほんの僅か外れる様に誘導します。(連勁)力が中心から外れると、相手がどんなに力を入れても力はそれていくため相手に最大限の力を出させます。そうすることにより、相手の重心は浮き、平衡を失います。平衡を失ったところで粘勁によって得た相手の力を変化させ方向を変え、自分のわずかな力を加えその方向に押し出します。(引き倒してもよい。)そのことによって、相手はその方向に勢い良く弾け飛びます。と、言う事になります。(随勁)
最後に喰勁について、簡単に説明したいと思います。喰勁は化勁において最も重要で難しい勁と言えます。これは出来る人に学ばなくてはなりません。喰勁は字の如く、相手の力を喰うと言う事です。このことは相手の重心を掴み取り自由に扱う事です。この勁を伝承している人は私の留学時代でも少なく、またなかなか教えてくれません。八法(四正四隅)によって相手を崩し、粘勁により相手に粘り付き、聴勁によって相手の力の方向を知り、撞勁により力を悟り、喰勁により相手の重心を掴めば、後は飛ばそうが、動きを止めようが好きにできます。これが化勁です。
良師に学ぶ大切さ
何事にも言える事と思えるが、良い師に学ぶと言うことは大切と感じます。特に武術に関して言えば、良い師に学ぶことが最初の難関と言えるでしょう。これは登山と同じで、高尾山を登ると、高尾山からの景色が眺められます。しかし、登らなければ永遠に景色を眺めることはできません。それが富士山ならどうでしょう?更に素晴らしい景色が眺める事ができるでしょう。それが、エベレストなら・・・。良い師に学ぶ事とは、良い師のもとでなくては学べないものが多々あります。同じ八卦掌を学んでも師によって風格も内容も変わってきます。それが他派なら完全に違うものとなってしまいます。化勁にしても発勁にしても同じことが言えます。見たり聞いたりしただけでは学び取ることはできません。
私は馬老師に出会ってそのことを痛感いたしました。例え、別の師についても馬老師のような功夫は得ることができません。何故ならば、馬老師の風格も凄みも見ることも感じることもできないからです。多くの人は寸勁とは拳や掌、肘、脚などで行い、コツがあると言う人もいます。しかし、馬老師は指先で簡単に人を飛ばします。もちろん、コツもトリックも無く内外功のみで行います。
また、日本だけではなく、中国の老師も技や套路を創作することが多々あります。本来は基本しか学んでいないのに、沢山の套路を創作し、伝統の套路とウソ吹きます。更に自分の先生をないがしろして、僅かの期間しか習っていない先生の跡次と称して、弟子を多く取る人もいます。私はその事を知ったとき、憤り、憤慨し、馬老師に「何故、あの人達をそのままにしておくのですか?」と、問うと、「彼らはそれを仕事として、生活の糧としている。彼らは皆八卦も門人だ。私はそれを束ねる立場にある。それに私は公安の仕事もある。彼らにはそれが無い。門人の生活の糧を奪う事は私にはできないし、彼らの生活を守るのも先代から受け継いだ私の役目だ。」と、仰られた。当時、まだ20代前半の私には不満にしか思えなかった。
何故なら、当時の馬老師の生活は必ずしも裕福とは言えず、また、弟子からは一切月謝も会費も取らず。それなのに、私たちがお宅にお邪魔すると、いつもたくさんの料理を振舞っていただいた。しかし、その先生方は、家には大きなカラーテレビや高価な調度品に囲まれ、外国人の弟子を多くとり、財布にはドル札が溢れていた。
当時、私の父もまだ中堅サラリーマンで、上の兄と下の妹もまだ学生の為、あまり金持ちとは言えない家庭だった。だから、馬老師の生活を助けるだけの余裕がないばかりか、私も留学は3年のみと両親から言い渡されていたので、よく友人から借金をしていた。あの頃は7年、10年と留学をする人達が本当にうらやましかった。(後年、父は異例の出世をして、上場企業の社長までなり、我が家も裕福になったが、その時すでに私は独立していたため、生活にその恩恵は受けられなかったが、馬老師を日本に呼ぶ際には父はかなり協力していただき、また、生活ではない所で父の恩恵はたくさん受けました。)以前、耳にしたのが、「賀川は金持ちだから、馬傳旭老師に多額の月謝を払い、金で技を買った。」と、言う誹謗中傷にも近い事が言われたと聞きましたが、馬老師の名誉に為、ここで言っておきたいのは、私の留学中、馬老師は私に対して、一銭の金品も要求せず。私がお腹を空かすといつも食事を振舞っていただき、私の腹を満たしてくれたのは、馬老師とその家族であると・・・。
よく「名師は必ずしも明師ではなく、 明師もまた名師ではない。」と、言われますが、
正に、その通りです。私は幸い馬老師のような良い師に恵まれ、武術人生でこれほどの幸福はないと思えます。
纏絲勁と螺旋勁
一般的には捻る事を纏絲勁と言っている人もいますが、正確には捻るのみは螺旋勁となります。纏絲勁は捻じりと捻じりが絡み合い、あたかも絹の糸が纏わり合い、絡み合う勁を纏絲勁と言います。八卦掌は螺旋勁を用い、陳家太極拳は纏絲勁を用います。特徴として螺旋勁は爆発力を大きくなり、纏絲勁は勁が螺旋勁より緻密になり、攻撃力は螺旋勁より劣りますが、防御力(化勁)は螺旋勁より優れています。纏絲勁を更に緻密にしたのが、楊家太極拳の抽絲勁となります。よく、「寸勁を極めると、化勁は極められなくなり、化勁を極めると寸勁は完成しない。」と、言われていますが、この言葉は纏絲勁と螺旋勁の事に他なりません。寸勁は螺旋勁から作られますが、これは螺旋の力を指先まで伝えなくてはならなく、絡み合えば互いを抑制し合い、力が指先まで到達しません。逆に力が絡み合う事で、強固で頑丈な防御態勢が出来、それが相手の力に絡み着き、力を無力化(化勁)するのが纏絲勁となるのです。(尚、ここで言う寸勁とは、現在世間一般で言う3.3㎝は寸勁、3.3㎜は分勁、0からの着勁や手首のスナップ、拳の握り込み等のコツとは違い、八卦掌独特の寸勁と言う技法の事です。)
穿掌と三穿掌
八卦掌の練習者でよく間違えるのが、穿掌と三穿掌の違いがあります。
よく、三穿掌は穿掌を三回連続で素早く打つ技法と勘違いしている練習者がいますが、そもそも穿掌と三穿掌は違う技法です。穿掌は八卦で言えば「乾」に属し、三穿掌は「巽」に属します。穿掌の技術は剛強な勁で相手を攻撃し、もし躱されたらさらに連続して打ち続ける。正に剛勁に属します。それに対して三穿掌は、相手の攻撃を受け、それを変化させ、相手を打つ。巧妙な技術です。尹福の得意としたのが穿掌であり、八卦三大絶技に連なるのが三穿掌です。
ちなみに八卦三世馬貴の得意とした「腕打」とは、拳は使わず鉤手の手首の部分を使って打つ技術です。拳の裏拳で転身して打つのは「反背錘」と言って八卦二世馬維棋の得意技です。以前、ある雑誌で間違って説明されて以来、多くの人が勘違いしているようです。